太鼓の会発足の経緯
−5周年記念誌より−

985年(昭和60年)に、第2北友子ども会の活動の場としてスタ−トしました。
当時、子ども会のクラブとしては、野球部だけで、女子の活動の場がなく、その要望に応え
て太鼓活動の発案がなされたと聞いております。指導者、用具の準備に子ども会の役員は、
東奔西走(そこまで大げさではないが)。
6月に練習開始。最初は、盆踊りのたたき方。たたける物は、酒樽・ダンボ−ル筒・タイヤ・
公園の鉄棒・18L缶等々。
初めて太鼓にふれたのは、八幡太鼓さんとの合同練習、と、いうより、お願いして教えても
らったというのが、実体でしょう。
そうこうしているうちに、夏祭りのシ−ズンとなり、町会の祭り会場で盆踊りをたたかしてもら
いたいとPRをおこなったところ、了承され、神社に太鼓があることもわかりました。
神社にあった太鼓は、宮太鼓1台と張太鼓2台だけで、それも相当に古く使われずにしまわ
れていました。(現在、太鼓の会で管理してます。)
7月末、北谷祭。初めて櫓の上で盆踊りの太鼓をたたきました。手はまめだらけ、最後は、ま
めがつぶれて包帯を巻いての熱演でした。
その後、子ども会の正式なクラブと発足するために、会員の再募集を行い、会員28人(第1
北友子ども会の練習生4人を含む)で、12月29日にスタ−トしました。

*参考までに当時と現在の違い
住居表示は北谷町であり、町会名は北谷第一町会であった。子ども会は、第1北友子ども会
と第2北友子ども会に別れていた。祭り会場は、鈴木工務店前の広場であった。
月日は流れ、住居表示は、北谷3丁目となり住居区画の変更で峰分町会の一部が加わった。
子ども会も一つに統合され、北友子ども会となり、祭り会場も神社公園に変わった。

当時の写真から


当時の思い出として

-半纏と化粧-

足当時、半纏は赤いものしかなかった。女子は良いとしても、男子もこの赤い半纏を着て
いた。それと、舞台に出るときは、男子も化粧をしていたのを、思い出す。結構、濃めの化
粧であった。育成者のお母さん方が、お化粧を施していたのが、ほほえましい。
その後、男子は黒い半纏に変わり、化粧もしなくなった。当時の写真をみると、おかしさと、
懐かしさを感じる。


-孟宗竹-

人数の割には、太鼓は、宮太鼓1台、張太鼓2台、樽が数個あっただけで全員が練習する
には、叩けるものがなかった。そこで、考えだされたのが、孟宗竹であった。1本で、3〜4
人叩ける。大太鼓等も、3人1組で叩くように曲を工夫したりと、結構、あぁでもない、こうでも
ないと、悩んだものである。
竹は、人数を稼げる優れものであったが、元気に叩かれると、ばちを折られたり、竹にヒビ
が入ったりと、毎年、新しい竹に取り替えていた。
蛇足であるが、古い竹を利用して、そうめん流しを楽しんだこともあった。

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